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第4話 「王子の庇護」

Author: 辻野幸枝
last update publish date: 2026-07-23 05:40:37

 王宮の夜は静かに更けていた。

 豪華なシャンデリアの光が大理石の廊下を淡く照らし出し、窓の外からは涼しい夜風とともに遠くの噴水のせせらぎが微かに聞こえてくる。

 しかし、その美しい光景の中にあっても、リリィの心は一向に安らぐことはなかった。

 彼女の背中を押す重圧は日に日に増し、王宮の冷たい視線が刺さり続けていた。

「また、あの子が廊下を通ったわね」

「相変わらず、まるで幽霊のように静かに……」

 「まるで牌を握ることを拒否するかのように……あの“牌を握らない姫”って噂は本当らしいわ」

 「外の世界から来たというだけで、何の才覚もない娘に王子の|寵愛《ちょうあい》を注がれるなんて、我々の面子はどうなるのやら」

 貴族たちの囁きは、夜の闇に溶け込むと同時に、リリィの心中を深くえぐり続けた。

 麻雀が絶対的な価値を持つこの世界で、牌を握ることを拒否する彼女は、異端でしかなかった。

 その孤独を紛らわせるために、彼女はいつも夜の回廊を一人で歩いていた。

 その足音が途絶えると、代わりに貴族たちの軽薄な笑い声が響き、彼女の心をさらに凍てつかせるのだった。

そんな中で、彼女を見守り続ける人物がいた。

 第一王子セディリオ。

 言わずもがな、王宮で数少ないリリィの理解者であった。

 彼は権威を振りかざすことなく、誰に対しても分け隔てなく接する穏やかな青年だった。

 王子の|庇護《ひご》のもとにあっても、リリィにとってこの世界は決して優しい場所ではなかった。

 しかし、セディリオは彼女の痛みを誰よりも知り、静かに支え続けていた。

 ある晩、リリィはまたひとり、王宮の長い回廊を歩いていた。

 大理石の床に反響する自分の足音が、彼女の孤独をいっそう深める。

 その足音に混じって、もう一つの足音が近づいてくることに、彼女は気づかなかった。

「……リリィ」

 呼び止められた声は、セディリオだった。

 彼の声は静かだが、確かな温もりが宿っている。リリィは振り返り、はっと目を見開いた。

「セディリオ様……こんな時間に、何をしているのですか?」

「それはこちらの台詞だ。この時間まで起きて、何をしていたんだ?」

 セディリオは彼女の隣に並び、静かに歩き始めた。

「散歩です。……考え事をしていました」

「考え事、か。この宮殿は、夜になると特に冷たく感じるだろう。だが、お前には多くの重荷が背負わされている。ここでは皆、お前を理解しようとはしない。牌を握らない者など、何の価値もないと見なされている」

 リリィの瞳がわずかに揺れた。貴族たちの心無い言葉が脳裏に蘇る。

「……そうですね。でも、私はここにいる意味を探さなければならないと思っています」

「その気持ちはよくわかる。だが、無理はするな。お前の心の傷は、そう簡単に癒えるものではない。牌を打てないのは、弱いからではない。それだけ深く麻雀を愛していた証拠だ。麻雀の光を知っているからこそ、その闇に触れるのが怖いのだろう?」

 彼の言葉は、リリィの凍りついた心をほんの少しだけ温めた。

 彼の理解の深さに、リリィは胸が熱くなるのを感じた。

「セディリオ様……ありがとうございます。貴方の言葉に、いつも救われます。感謝しております」

「俺は、お前のことを心配している。だが、俺はお前に麻雀を打って欲しいという気持ちが強すぎて、お前の心の痛みを直接理解するのは難しいのかもしれない。俺はただ、お前が心の底から笑える日を待っているだけだ」

彼は静かにリリィの肩に手を置いた。その手は温かく、優しかった。

「お前が望むなら、俺が力になる。お前をこの世界の重圧から守る盾にでも、杖にでもなろう。お前が麻雀を打たなくても、この王宮でお前を守る者はいる」

 リリィは小さく息を吐いた。

「その言葉だけで、十分です。……この王宮で、一人ではないと感じられるだけで、私は頑張れます。あなたがいてくれるだけで、心強いです」

 二人の間に流れる静かな時間が、互いの絆を深めていくのだった。

 翌日、王宮の広間で、セディリオ王子が家臣たちに告げていた。

「皆に伝えておきたいことがある。リリィは、この国にとって、ただの『牌を握らない姫』ではない。彼女の存在こそ、我々の未来の鍵だ」

 侍従の一人が疑問を投げかける。

「王子様、しかし彼女はまだ麻雀に戻る気配がありません。貴族たちの反発も強く、このままでは政情が不安定になりかねません。彼女を、外の世界に送り返すべきでは……?」

 セディリオは静かに首を振った。

「焦るな。麻雀の神が彼女をこの世界に導いたのだ。そこには必ず意味がある。我々は急ぎすぎてはいけない。彼女自身が立ち上がる時を待つのだ。それが、彼女への、そして予言への最大の敬意だ」

 別の家臣が不安げに尋ねる。

「しかし、それでは貴族たちの不満が……特に、ヴァレンティン伯爵などは、公然と不満を口にしています」

「その不満を抑えるために、僕もまた、彼女を守り、導いている。僕の助力に期待してくれ。僕は彼女の心を誰よりも理解しているつもりだ。リリィの心を解き放てるのは、我々の中では彼しかいないのだから。ヴァレンティン伯爵には、私が直接話をつける。彼の麻雀の実力は認めるが、政治に私情を挟むようでは困る」

 セディリオの言葉には、リリィを守る固い意志が込められていた。

 彼の計画は、リリィの才能を無理に引き出すのではなく、彼女の心の傷を癒すことを最優先にしていた。

 リリィの部屋に、ある日セディリオが訪れた。

「やあ、リリィ。様子を見に来た。最近、顔色が少し良くなったようだ」

 リリィは驚きながらも、扉を開けた。

「セディリオ様……ご無沙汰しております。お仕事は大丈夫なのですか?」

「ああ、平気だ。堅苦しいことは抜きにしよう。僕は家族のようなものだろう?」

 リリィは微笑んだが、その瞳には不安も宿っていた。

「最近、どうだ? 心は少しは軽くなったか?」

「まだ怖いです。牌を握ることは……。でも、あなたの存在に支えられているのは確かです。毎日、貴族の方々の冷たい視線を感じますが、それでもなんとかやっていけています」

 彼女は率直に自分の気持ちを打ち明けた。セディリオは静かに頷いた。

「その気持ちを大切にしろ。焦る必要はない。この国には、麻雀以外にも美しいものがたくさんある。お前が麻雀以外の価値を見つけ、幸せに生きることもまた、俺たちの喜びだ。この王宮の庭園には、珍しい花がたくさん咲いている。今度、一緒に見に行こう。きっと、お前の心の慰めになるだろう」

 そう言いながら、彼は小さな箱を差し出した。

「これを受け取ってくれ」

 リリィが箱を開けると、中には美しい麻雀牌の根付けが入っていた。

 それは、牌の形をした白い石に、小さな宝石が嵌め込まれたものだった。

「これは……?」

「俺が作らせた特別な品だ。お前の守り札だと思ってくれ。この世界では、麻雀は人を傷つけるだけの道具ではない。愛や友情、希望を育むものでもある。そのことを、この根付けが思い出させてくれるはずだ」

 リリィの目に涙が浮かんだ。

 彼の優しさと、麻雀への純粋な思いが、彼女の胸に深く響いた。

「ありがとう……セディリオ様。大切にします。これを手にしていると、貴方がそばにいてくれるような気がします」

 しかし、そんな中、王宮内には陰謀の気配も蔓延していた。

 貴族の一人、ヴァレンティン伯爵がリリィの排除を画策していた。

 彼は旧体制の守護者であり、予言の雀士の出現を、自らの権力を脅かすものだと恐れていた。

「王子の寵愛を受けているからといって、あの女をのさばらせるわけにはいかぬ。予言などという曖昧なものに、この国の未来を託せるか! 彼女がこの国にもたらすのは、混沌と混乱だけだ!」

 側近が問いかける。

「どうされますか、伯爵様? やはり、彼女を貶める策を……」

「今こそ、彼女の失敗を暴き、王子の信頼を揺るがすのだ。麻雀を打てぬ女が、王宮にいること自体が不名誉だ。我々の誇りを守るため、彼女を追放せねばなるまい。それに、彼女を追放すれば、セディリオ王子の威信にも傷をつけることができる。これは一石二鳥だ」

 ヴァレンティン伯爵の冷酷な言葉に、側近は背筋を凍らせた。

 ある日、リリィとセディリオは王宮の庭園で話し込んでいた。

 木漏れ日が降り注ぐベンチで、二人はゆっくりと言葉を交わす。

「私は、何度も逃げ出したくなりました。この世界に来てから、ずっと。でも、逃げ出しても、私の心は何も変わらない」

 リリィはポツリと本音を漏らした。

「だが、逃げてばかりでは何も変わらない。お前は、確かに麻雀から逃げた。だが、それは過去の過ちを繰り返さないためだ。そして今、この世界で、自分の力で生きていく道を探している。それは、逃げではない。立ち向かうことだ。お前は、この世界で生きていく覚悟を決めた」

 リリィはうつむき、そして顔を上げた。

「あなたがいてくれるから、ここまでこれたんです。もし一人だったら……この王宮で、私はきっと潰されていた」

「お前の強さは、俺が見ている以上だ。お前はもう、ただの少女ではない。過去の痛みを知り、それでも前を向こうとする、気高き魂の持ち主だ」

「でも、私の弱さは……」

 セディリオは優しく彼女の手を取った。

「弱さは恥ではない。乗り越える力の証だ。お前は、その弱さと向き合っている。それが、何よりも尊いことだ。お前がいつか、心の底から麻雀を愛せる日が来ることを、俺は信じている」

 二人の視線が交わり、静かな理解が生まれた。リリィの心に、温かい光が灯る。

 しかし、セディリオの庇護も万全ではなかった。

 ある日の夕方、リリィが水差しを運んでいると、ヴァレンティン伯爵とその一派が廊下で彼女を待ち構えていた。

「おい、そこの女。よくもまあ、面の皮が厚いものだ。麻雀も打てぬ分際で、王宮に居座るとは」

「その水差しで、我々に毒でも盛るつもりか? 雀士を惑わすような妖しい目で、王子を誑かしているそうじゃないか」

 貴族たちの厳しい言葉に、リリィは震え上がった。

 水差しを持つ手が震え、今にも落としそうになる。

 その姿を見たセディリオは、|毅然《きぜん》と立ち上がった。

「やめろ。彼女を侮辱するな」

 セディリオの声は静かだったが、その威圧感は王子のものだった。

「王子殿下、我々はただ、この国の秩序を憂いているだけで……」

「黙れ!」

 セディリオは声を荒げた。

「リリィは、この王宮の未来を担う者だ。軽んじる者には、相応の報いがある。彼女を傷つける者は、私自身が許さない」

 その声に貴族たちは押し黙り、恐れをなして道を譲った。

 リリィは、ただ静かにセディリオを見つめていた。

 彼の存在が、彼女の心の支えとなっていた。

 その夜、リリィはセディリオからもらった麻雀牌の根付けを胸に抱き、眠りについた。

「あなたがいてくれてよかった……」

 まだ険しい道のりは続くが、二人の絆は揺るぎないものへと育っていくのだった。

 

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