登入「また、あの子が廊下を通ったわね」
「相変わらず、まるで幽霊のように静かに……」「まるで牌を握ることを拒否するかのように……あの“牌を握らない姫”って噂は本当らしいわ」
「外の世界から来たというだけで、何の才覚もない娘に王子の|寵愛《ちょうあい》を注がれるなんて、我々の面子はどうなるのやら」
貴族たちの囁きは、夜の闇に溶け込むと同時に、リリィの心中を深くえぐり続けた。
麻雀が絶対的な価値を持つこの世界で、牌を握ることを拒否する彼女は、異端でしかなかった。 その孤独を紛らわせるために、彼女はいつも夜の回廊を一人で歩いていた。 その足音が途絶えると、代わりに貴族たちの軽薄な笑い声が響き、彼女の心をさらに凍てつかせるのだった。そんな中で、彼女を見守り続ける人物がいた。
第一王子セディリオ。
言わずもがな、王宮で数少ないリリィの理解者であった。 彼は権威を振りかざすことなく、誰に対しても分け隔てなく接する穏やかな青年だった。 王子の|庇護《ひご》のもとにあっても、リリィにとってこの世界は決して優しい場所ではなかった。 しかし、セディリオは彼女の痛みを誰よりも知り、静かに支え続けていた。ある晩、リリィはまたひとり、王宮の長い回廊を歩いていた。
大理石の床に反響する自分の足音が、彼女の孤独をいっそう深める。 その足音に混じって、もう一つの足音が近づいてくることに、彼女は気づかなかった。「……リリィ」
呼び止められた声は、セディリオだった。
彼の声は静かだが、確かな温もりが宿っている。リリィは振り返り、はっと目を見開いた。「セディリオ様……こんな時間に、何をしているのですか?」
「それはこちらの台詞だ。この時間まで起きて、何をしていたんだ?」
セディリオは彼女の隣に並び、静かに歩き始めた。
「散歩です。……考え事をしていました」
「考え事、か。この宮殿は、夜になると特に冷たく感じるだろう。だが、お前には多くの重荷が背負わされている。ここでは皆、お前を理解しようとはしない。牌を握らない者など、何の価値もないと見なされている」
リリィの瞳がわずかに揺れた。貴族たちの心無い言葉が脳裏に蘇る。
「……そうですね。でも、私はここにいる意味を探さなければならないと思っています」
「その気持ちはよくわかる。だが、無理はするな。お前の心の傷は、そう簡単に癒えるものではない。牌を打てないのは、弱いからではない。それだけ深く麻雀を愛していた証拠だ。麻雀の光を知っているからこそ、その闇に触れるのが怖いのだろう?」
彼の言葉は、リリィの凍りついた心をほんの少しだけ温めた。
彼の理解の深さに、リリィは胸が熱くなるのを感じた。「セディリオ様……ありがとうございます。貴方の言葉に、いつも救われます。感謝しております」
「俺は、お前のことを心配している。だが、俺はお前に麻雀を打って欲しいという気持ちが強すぎて、お前の心の痛みを直接理解するのは難しいのかもしれない。俺はただ、お前が心の底から笑える日を待っているだけだ」
彼は静かにリリィの肩に手を置いた。その手は温かく、優しかった。
「お前が望むなら、俺が力になる。お前をこの世界の重圧から守る盾にでも、杖にでもなろう。お前が麻雀を打たなくても、この王宮でお前を守る者はいる」
リリィは小さく息を吐いた。
「その言葉だけで、十分です。……この王宮で、一人ではないと感じられるだけで、私は頑張れます。あなたがいてくれるだけで、心強いです」
二人の間に流れる静かな時間が、互いの絆を深めていくのだった。
翌日、王宮の広間で、セディリオ王子が家臣たちに告げていた。
「皆に伝えておきたいことがある。リリィは、この国にとって、ただの『牌を握らない姫』ではない。彼女の存在こそ、我々の未来の鍵だ」
侍従の一人が疑問を投げかける。
「王子様、しかし彼女はまだ麻雀に戻る気配がありません。貴族たちの反発も強く、このままでは政情が不安定になりかねません。彼女を、外の世界に送り返すべきでは……?」
セディリオは静かに首を振った。
「焦るな。麻雀の神が彼女をこの世界に導いたのだ。そこには必ず意味がある。我々は急ぎすぎてはいけない。彼女自身が立ち上がる時を待つのだ。それが、彼女への、そして予言への最大の敬意だ」
別の家臣が不安げに尋ねる。
「しかし、それでは貴族たちの不満が……特に、ヴァレンティン伯爵などは、公然と不満を口にしています」
「その不満を抑えるために、僕もまた、彼女を守り、導いている。僕の助力に期待してくれ。僕は彼女の心を誰よりも理解しているつもりだ。リリィの心を解き放てるのは、我々の中では彼しかいないのだから。ヴァレンティン伯爵には、私が直接話をつける。彼の麻雀の実力は認めるが、政治に私情を挟むようでは困る」
セディリオの言葉には、リリィを守る固い意志が込められていた。
彼の計画は、リリィの才能を無理に引き出すのではなく、彼女の心の傷を癒すことを最優先にしていた。リリィの部屋に、ある日セディリオが訪れた。
「やあ、リリィ。様子を見に来た。最近、顔色が少し良くなったようだ」
リリィは驚きながらも、扉を開けた。
「セディリオ様……ご無沙汰しております。お仕事は大丈夫なのですか?」
「ああ、平気だ。堅苦しいことは抜きにしよう。僕は家族のようなものだろう?」
リリィは微笑んだが、その瞳には不安も宿っていた。
「最近、どうだ? 心は少しは軽くなったか?」
「まだ怖いです。牌を握ることは……。でも、あなたの存在に支えられているのは確かです。毎日、貴族の方々の冷たい視線を感じますが、それでもなんとかやっていけています」
彼女は率直に自分の気持ちを打ち明けた。セディリオは静かに頷いた。
「その気持ちを大切にしろ。焦る必要はない。この国には、麻雀以外にも美しいものがたくさんある。お前が麻雀以外の価値を見つけ、幸せに生きることもまた、俺たちの喜びだ。この王宮の庭園には、珍しい花がたくさん咲いている。今度、一緒に見に行こう。きっと、お前の心の慰めになるだろう」
そう言いながら、彼は小さな箱を差し出した。
「これを受け取ってくれ」
リリィが箱を開けると、中には美しい麻雀牌の根付けが入っていた。
それは、牌の形をした白い石に、小さな宝石が嵌め込まれたものだった。「これは……?」
「俺が作らせた特別な品だ。お前の守り札だと思ってくれ。この世界では、麻雀は人を傷つけるだけの道具ではない。愛や友情、希望を育むものでもある。そのことを、この根付けが思い出させてくれるはずだ」
リリィの目に涙が浮かんだ。
彼の優しさと、麻雀への純粋な思いが、彼女の胸に深く響いた。「ありがとう……セディリオ様。大切にします。これを手にしていると、貴方がそばにいてくれるような気がします」
しかし、そんな中、王宮内には陰謀の気配も蔓延していた。
貴族の一人、ヴァレンティン伯爵がリリィの排除を画策していた。
彼は旧体制の守護者であり、予言の雀士の出現を、自らの権力を脅かすものだと恐れていた。「王子の寵愛を受けているからといって、あの女をのさばらせるわけにはいかぬ。予言などという曖昧なものに、この国の未来を託せるか! 彼女がこの国にもたらすのは、混沌と混乱だけだ!」
側近が問いかける。
「どうされますか、伯爵様? やはり、彼女を貶める策を……」
「今こそ、彼女の失敗を暴き、王子の信頼を揺るがすのだ。麻雀を打てぬ女が、王宮にいること自体が不名誉だ。我々の誇りを守るため、彼女を追放せねばなるまい。それに、彼女を追放すれば、セディリオ王子の威信にも傷をつけることができる。これは一石二鳥だ」
ヴァレンティン伯爵の冷酷な言葉に、側近は背筋を凍らせた。
ある日、リリィとセディリオは王宮の庭園で話し込んでいた。
木漏れ日が降り注ぐベンチで、二人はゆっくりと言葉を交わす。「私は、何度も逃げ出したくなりました。この世界に来てから、ずっと。でも、逃げ出しても、私の心は何も変わらない」
リリィはポツリと本音を漏らした。
「だが、逃げてばかりでは何も変わらない。お前は、確かに麻雀から逃げた。だが、それは過去の過ちを繰り返さないためだ。そして今、この世界で、自分の力で生きていく道を探している。それは、逃げではない。立ち向かうことだ。お前は、この世界で生きていく覚悟を決めた」
リリィはうつむき、そして顔を上げた。
「あなたがいてくれるから、ここまでこれたんです。もし一人だったら……この王宮で、私はきっと潰されていた」
「お前の強さは、俺が見ている以上だ。お前はもう、ただの少女ではない。過去の痛みを知り、それでも前を向こうとする、気高き魂の持ち主だ」
「でも、私の弱さは……」
セディリオは優しく彼女の手を取った。
「弱さは恥ではない。乗り越える力の証だ。お前は、その弱さと向き合っている。それが、何よりも尊いことだ。お前がいつか、心の底から麻雀を愛せる日が来ることを、俺は信じている」
二人の視線が交わり、静かな理解が生まれた。リリィの心に、温かい光が灯る。
しかし、セディリオの庇護も万全ではなかった。
ある日の夕方、リリィが水差しを運んでいると、ヴァレンティン伯爵とその一派が廊下で彼女を待ち構えていた。
「おい、そこの女。よくもまあ、面の皮が厚いものだ。麻雀も打てぬ分際で、王宮に居座るとは」
「その水差しで、我々に毒でも盛るつもりか? 雀士を惑わすような妖しい目で、王子を誑かしているそうじゃないか」
貴族たちの厳しい言葉に、リリィは震え上がった。
水差しを持つ手が震え、今にも落としそうになる。 その姿を見たセディリオは、|毅然《きぜん》と立ち上がった。「やめろ。彼女を侮辱するな」
セディリオの声は静かだったが、その威圧感は王子のものだった。
「王子殿下、我々はただ、この国の秩序を憂いているだけで……」
「黙れ!」
セディリオは声を荒げた。
「リリィは、この王宮の未来を担う者だ。軽んじる者には、相応の報いがある。彼女を傷つける者は、私自身が許さない」
その声に貴族たちは押し黙り、恐れをなして道を譲った。
リリィは、ただ静かにセディリオを見つめていた。 彼の存在が、彼女の心の支えとなっていた。その夜、リリィはセディリオからもらった麻雀牌の根付けを胸に抱き、眠りについた。
「あなたがいてくれてよかった……」
まだ険しい道のりは続くが、二人の絆は揺るぎないものへと育っていくのだった。
【深夜の王都・王立麻雀殿堂・屋根裏部屋】漆黒の闇に覆われた王立麻雀殿堂の屋根裏部屋に、ぼんやりとした月明かりが差し込んでいた。窓の隙間から吹き込む風が、埃の積もった古い書物をそっと揺らす。夜の静けさの中、ただ風の音だけが、不気味なほどに響いていた。その静寂を切り裂くように、一羽の黒い鳥が、音もなく窓から飛び込んできた。その羽は闇に溶け込み、まるで幻影のようにゆっくりと部屋の一角に降り立つ。そのくちばしには、黒く重そうな、まるで呪文が込められているかのような封筒がしっかりと握られていた。黒い鳥(心の声)「これが……あのヴァイス侯爵からの挑戦状……。王国の命運を賭けた最終決戦の招待……。私の役目は、この手紙をリリィ嬢に届けることだけ……」鳥は使命を終えたかのように、机の上に封筒をそっと落とすと、静かに羽を震わせて、再び闇の中へと飛び去っていった。その封筒からは、微かに魔力が発せられ、まるで生きているかのように脈動している。【控室・ミミの部屋】その日の夜、ミミは緊張で寝付けず、何度も寝返りを打っていた。昼間の麻雀殿堂での出来事が、まだ鮮明に脳裏に焼き付いている。ヴァイスの冷たい笑み、リリィの決意に満ちた表情、そして最後の爆発音。様々な感情が渦巻き、彼女の心を揺さぶっていた。ふと、机の上に置かれた見慣れない黒い封筒が、月明かりを反射して光っているのが目に入った。それは、今日の麻雀殿堂でセディリオが受け取ったものと同じ封蝋で封じられている。ミミの胸に、嫌な予感がよぎった。ミミ(低い声で)「……ヴァイスからの挑戦状?」恐る恐る、震える手で封筒に手を伸ばす。封蝋を剥がす指先が冷たくなっていた。ゆっくりと封筒を開け、中の文面を読み上げる。ミミ「『王国の未来を賭け、最終決戦の場でお前を叩き潰す。準備せよ』……」その短い文面には、ヴァイスの歪んだ自信と、リリィに対する明確な敵意が凝縮されていた。ミミは思わず息をのむ。その時、ドアが静かに開き、リリィが部屋に入ってきた。彼女の顔は、昼間と変わらず穏やかで、しかしその瞳には強い光が宿っていた。リリィ「……来たわね。とうとう最終決戦の招待状が」ミミはリリィに封筒を差し出した。リリィはそれを一瞥すると、静かに頷いた。ミミ「こんなに……早く来るなんて……。まだ一晩も経っていない
【国立麻雀殿堂・中央アリーナ 決勝戦】ドーム型の巨大なアリーナは、ヴァイスの占拠宣言によって静まり返っていた。壇上ではヴァイスが不敵な笑みを浮かべ、その隣に《黒手》の幹部たちが立つ。観客席にはヴァイスの部下が潜り込み、威圧的な視線を観客に送っていた。しかし、その緊張の中、麻雀卓を挟んでヴァイスと対峙するリリィの表情は、どこまでも穏やかだった。ヴァイス「ほう……。麻雀卓の向こう側は、随分と余裕だな。だが、その余裕もすぐに消え失せるだろう。この試合は、貴様の希望を打ち砕き、この国を私の支配下に置くための、反乱の序曲だ」リリィ「いいえ。これは、あなたの野望を打ち砕くための、正義の麻雀です」その言葉を合図に、静かに試合が始まった。【第一局・東一局】牌山が自動で積まれ、配牌が配られる。リリィは手牌をゆっくりと確認し、その表情を一切変えない。しかし、ヴァイスは配牌を取った瞬間、満足げに口角を上げた。ヴァイス「……ツモ」わずか三巡目。彼は大きく牌を卓に叩きつける。「倍満だ」観客席がどよめく。あまりの速さに、誰もが言葉を失っていた。ヴァイスの部下たちが、不気味な笑みを浮かべている。 ミミ(王族席)「なっ……もう倍満!? 早すぎるよ!」レオンハルト(王族席)「しかも配牌からの速攻だ……不自然だ。ヴァイスの打牌に、霊力の気配は感じられないが、何らかの不正が仕掛けられているはず」セディリオ(王族席)「……リリィ、落ち着け。焦る必要はない」リリィは笑みを崩さず、静かに次局の準備を始める。 リリィ「いいですね、その速さ。でも――速さだけじゃ、勝てませんよ」ヴァイス「ほう? その負け惜しみ、いつまで言えるかな」リリィの言葉に、ヴァイスはわずかに眉をひそめる。彼の麻雀は、牌山に細工を施し、ツモをコントロールすることで成立している。しかし、リリィは、その不正の仕組みを既に理解しているようだった。【第二局・東二局】ヴァイスはまたも早い手を作りにいく。彼の目的は、リリィに考える隙を与えず、圧倒的な速さで勝負を決め、彼女の心を折ることだった。しかし、リリィの打ち筋が変化する。ミミ(王族席)「……あれ? リリィ、わざと鳴いて流れを止めてる?」レオンハルト(王族席)「そうだ。ヴァイスの速攻を封じ、山を荒らしている。ヴ
【国立麻雀殿堂・王族控室 早朝】重たい空気が、まるで湿った布のように部屋を覆っていた。窓の外は曇天で、街のざわめきは遠い。控室にいるのはセディリオ、リリィ、ミミの三人。誰も言葉を発さず、ただ時計の針の音だけが、耳に響いて聞こえる。沈黙を破ったのは、セディリオだった。その声は低く、鋭く、まるで空気を裂くかのように響いた。「……内部に裏切り者がいる」その言葉に、控室にいた全員の視線が、一斉に彼に注がれる。リリィ「……裏切り者?」セディリオ「ああ。昨夜、ヴァイス側に機密情報が漏れた。我々の調査網をくぐり抜けて、だ。ヴァイスが我々の動きを読み、先手を打ってきている。これは偶然ではない」ミミ「機密って……大会の警備計画のこと?」セディリオ「そうだ。警備兵の配置、王族の移動ルート……すべて。我々がここに来る直前の情報だ。ヴァイスは、この情報を利用して、今日、この殿堂を占拠するつもりだろう」ミミの耳がぴくりと動く。「そんなの、王城のごく限られた人しか知らないはずじゃ……。まさか、その中に裏切り者がいるってことですか?」その瞬間、扉がノックもなく開いた。入ってきたのは――王国警備隊長、レオンハルト。彼は鎧を身につけ、緊張した面持ちで立っていた。レオンハルト「お呼びでしょうか、殿下。早朝から、大変申し訳ありません」セディリオの視線が鋭く細まる。「レオンハルト、君にも確認しておきたい。昨夜の情報漏洩について……何か心当たりは?」レオンハルトは一瞬、言葉に詰まる。「……ありません。警備計画は私の直属部隊と殿下、そして宰相閣下しか知り得ない情報です。もちろん、部下には|箝口令《かんこうれい》を敷いております」リリィはその声をじっと聞いていた。(……声が硬い。呼吸が浅い。緊張……いや、何かを隠してる。まるで、嘘を重ねるたびに、心が硬化していくみたい)ミミは小声でリリィにささやいた。「ねえ、なんかあの人……目の焦点が泳いでない? こっちをまっすぐ見られないみたい」リリィも小声で答える。「ええ、しかも視線が殿下を避けてる。ヴァイスの悪意に侵されている感じはしない。それどころか、苦悩している……まるで、誰かに脅されているみたい」【数時間後・作戦会議室】王城の作戦会議室。大きな円卓を囲んで、セディリオ、宰相、高官数名、リリィ、ミミ、
【王都・国立麻雀殿堂 決勝当日】巨大なドーム型の天井から、金色の装飾が眩く輝き、その光が観客席を照らしていた。今日の決勝戦は、この大会の歴史の中でも、類を見ないほどの注目を集めている。開場を待ちわびた人々が、早くから列をなし、観客席は早くも満席となっていた。太鼓の荘厳な音と、地鳴りのような歓声が交互に響き渡り、会場全体が期待と熱狂に包まれていた。舞台袖で、リリィは静かに目を閉じて呼吸を整えていた。彼女の耳には、観客の声援も、太鼓の音も、まるで遠い世界のできごとのように聞こえていた。ただ、胸の奥で、ヴァイスの悪意が放つ、不気味な気配だけが、冷たい風のように吹き抜けているのを感じていた。そこへミミが駆け寄る。彼女の顔には、緊張と、そして小さな不安が浮かんでいた。「リリィさん……なんだか、今日の会場、雰囲気が違います。いつもの熱狂とは、違うような……」「違う?」リリィは静かに問い返した。「うん……観客席のあちこちに、黒服の人たちが固まってるんです。警備員とも違う、異様な雰囲気。普通の警備じゃない感じがします」リリィはまぶたを開け、ミミの肩に手を置いた。その瞳は、一点の曇りもなく、ただ真実を見据えていた。「……たぶん、ヴァイスの差し金。今日の試合で、何かを仕掛けてくるつもりよ」ミミの瞳が不安に揺れる。「やっぱり……。どうするんですか、リリィさん! このまま試合なんて……」そこへセディリオ王子が現れた。彼の顔にも、緊張の色が濃く浮かんでいる。「君の勘は正しい。今日は……特に気を付けろ」「何か掴んだの?」リリィはセディリオに視線を向け、真剣な声で問う。セディリオは眉をひそめ、低く答えた。「ヴァイスが“仕組まれた敗北”を用意している。試合中に不正を仕掛けるつもりだ。君の勝利が、彼にとって最も都合の悪いことだからな」「……どんな不正を?」「詳細まではまだ。だが、《黒手》が牌山に細工を施す可能性が高い。普通の目では分からない……それも、魔法牌の霊力を応用した細工だ。我々の調査では、それが最も奴らにとって有力な手段だとされている」リリィは一瞬黙り、やがて小さく笑った。その笑みには、不安も恐怖もなく、ただ強い闘志だけが満ちていた。「なら、こっちも魔法牌の理論で暴いてやる。私が一番よく知っているはずよ、魔法牌の力のことを」【試合開始
王都大会の夜。分厚いカーテンが外の月明かりを遮り、室内は暖炉の炎の赤だけで照らされていた。その豪奢な屋敷の主、ヴァイス侯爵は、深紅の肘掛け椅子に身を沈め、指先でワイングラスをゆっくりと回している。甘く濃厚な葡萄酒の香りが部屋に漂い、その香りさえも彼の傲慢さを際立たせるようだった。「報告します」黒いローブを纏った部下が、絨毯の上に片膝をつく。彼の声は、侯爵の耳に届くよう、しかし他の者には聞こえないように、極限まで抑えられていた。「例の少女、リリィは本日も大会で勝利を収めました。これで七連勝です。民衆の熱狂は、もはや抑えられないほどに高まっております」ヴァイスは口の端をわずかに吊り上げ、冷笑を漏らす。「ふん……やはり来たか、こういう存在が。異世界から来たという噂までついて、民衆は夢中だ。王家の都合の良い英雄を仕立て上げ、民衆の目を欺こうとしている。だが、その手には乗らん」「それだけでなく、王族からの信頼も……セディリオ殿下などは特に、彼女に自らが護衛につくほどに……」ヴァイスはワイングラスをテーブルに置き、指先で軽く二度叩いた。カン、カン、という小さな音が、部屋の静寂を不気味に切り裂く。「つまり、今あの小娘を潰せば――王族も民衆も、私を避けては通れなくなる。民衆は絶望し、王族は権威を失う。その隙に、私はこの国の全てを手に入れる」部下がためらいがちに口を開く。「しかし、殿下……“あの組織”を再び動かすおつもりですか? 前回は失敗に終わりましたが……」ヴァイスの目が鋭く光る。その瞳には、燃え盛る炎のような狂気が宿っていた。「お前は忘れたか? 《黒手》は元から私の掌の上にある駒だ。以前、殿堂で起きた騒ぎも私の命令だ。あれはただの試運転だった。あの時は、まだ駒が未熟だった。だが、今回は違う。準備は整った」部下は息を呑む。「では、あのクーデター未遂も……?」「そうだ。あれも、ただの試運転。本番はこれからだ。この大会の決勝戦こそが、全てを決する舞台となる」ヴァイスは立ち上がり、窓辺に歩み寄る。外の街灯が揺らめき、その光が彼の背に長い影を落とした。「国立麻雀殿堂――あの場所を制圧すれば、王国の心をも奪える。人々が希望を託した場所を、絶望の場所に変えてやる」【場面転換:国立麻雀殿堂・大会控室】大会後、控室でリリィは椅子に腰掛け、濡
王都大会の舞台裏。特別な空間に、リリィ、セディリオ、そしてミミの三人は招かれていた。そこに待っていたのは、この国の最高権力者、国王その人だった。広間の空気は重く、壁に飾られた歴代の王たちの肖像画が、静かに三人を見下ろしているようだった。国王は、荘厳な玉座に座りながらも、その眼差しは穏やかで、威圧感よりもむしろ知的な好奇心を湛えている。「異世界から来た者が、わが国の伝統ある麻雀の大会でここまでの実力を示すとは、まことに驚異的だ。君の打ち筋は、我々がこれまで見てきたどの雀士とも違う。それは、ただの技術ではなく、新しい可能性を感じさせるものだ」リリィは小さく息を飲み、真摯に答えた。「陛下のお言葉、身に余る光栄です。私はただ、麻雀が好きなだけで……。この国の麻雀に、少しでも新しい風を吹き込めたのであれば、嬉しく思います」国王は笑みを浮かべる。その表情は、一人の人間としてリリィに語りかけているかのようだった。「好きという情熱は、技術に勝る力となる。それこそが、君をここまで強くしたのだろう。しかし、国を背負う重責もまた、理解してほしい。君の勝利は、この国の民に希望を与えている。それは、王家にとっても大きな意味を持つ」「はい……」リリィは言葉を詰まらせながらも、決意を込めた。「私にできる限り、王国のために尽くします。たとえこの先、どんな困難が待ち受けていようとも、私はこの使命から逃げません」そのとき、セディリオ王子が静かに話し始めた。彼は一歩前に進み出て、国王とリリィの間に立つ。「リリィ殿は、私の最も信頼する戦士である。彼女の強さは、その技術だけでなく、何よりも揺るぎない精神にある。彼女は、この国の誇りとなるべき存在です。これからも我々の国の誇りとなることを願う」国王は深く頷きながら、厳かな表情で言った。「そのために、この場で君に特別な庇護と支援を約束しよう。君には、王家の戦士としての地位と、それに伴う一切の権限を与える。そして、君が望むならば、国の研究施設や魔術師団の力を、君の魔法牌の研究に自由に用いることを許可する」リリィの目には、感激と、そして重い責任を感じる涙が浮かんだ。(この信頼を裏切るわけにはいかない。私はもう、一人の雀士ではない。国の未来を背負う、王家の戦士……。私はもう、逃げられない……)【控室での葛藤:孤独と支え】|謁